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2017年3月

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箱廻しと「きよめ」(その2)

辻本 一英(芝原生活文化研究所代表)
 
 われわれは差別されていることを知っているが、文楽と横並びだと考えて運動している。文楽は2003年に世界遺産になった。当時の大阪市長は「たった200年しか歴史がないのか、世界の人形芝居を招いて大イベントをするのにそれではいかん。文楽より古い人形芝居はないのか」と言われ、われわれに白羽の矢が立った。
文楽は淡路から出た人形芝居である。昔はやはり神事で、人形が使われていた。それを迎え入れる土壌が市民の中にあった。ところが農業もガソリンと機械の時代になると、神事は不要になった。雨が降るかどうか、何時間後のどこそこの天気までボタン一つで瞬時にわかる時代になり、農業の形態が様変わりした。また、戦争で三番叟廻し芸人がおおぜい戦死した。命からがら帰ってきた人が次世代に伝えようとすると、若者はエキスポ(1970年の大阪万国博覧会)で大阪へ地下鉄工事に出かけ、県西部では三番叟廻しの後継者(若者)がいなくなった。1972年、県西部の三番叟廻し芸人の娘さんと農家の息子(互いに19歳)が結婚しようとしたが反対が起きた。「あの人は違う」と言う人がいたのである。娘さんがいい人かどうか関係ないと反対され、阿波踊りの最終日、二人は阿波池田から列車で香川県多度津町へ行って入水自殺を図った。しかし死にきれず、男性は詫間駅前の松の木に首をつり、女性は遺書を海岸寺駅前のポストに投函したのち深夜の列車に飛び込み自殺した。二人の地元は大騒ぎになった。同和教育がすでに始まっていたが十分進んでいないから事件が起きた、と取り組みが強められた。この事件で県西部では三番叟をぴたりとやめた。
雑誌「上方」(当時)にこんなことが書かれた。《最近、阿波の箱廻しは大減少をきたしている。その家筋の児童が学校で忌み嫌われる風を生じ、瞬く間に農業に転出した》。子どもたちは学校でいじめにあっていた。「ものもらい」「えべっさんの子」といじめられて泣いて帰ってきた。その部落はすべての家が箱廻し芸能をしていた人形の村だった。
香川県立図書館長(当時)は「人形の村」という文章を四国新聞に掲載し、《世間で幻の祝福芸能と呼ばれた三番叟廻しが徳島にあり、文楽の源流の一つに違いない。しかし、具体的なことは明らかにできない。というのは取材に応じないからだ》と書いた。
僕の婆ちゃんは1955年、僕が4歳の時、最後の門付けに行った。部落の高齢者に15年間にわたって何回も生活文化の話を聞き取りしたが、誰も教えてくれなかった。
「この部落に生まれてよかったと胸を張れる根拠を探そう」と家の中にあった古い道具を片っ端から集めて教材探しやフィールドワークに取り組んでいたころ、知り合いの骨董屋からこんな話を聞いた。「辻本さん、あんたの村にはなくてはならないものがある。えべっさんや」。
私は3歳を過ぎたある日、婆ちゃんが普段とまったくちがう様相をしたのを見た。それは婆ちゃん最後の人形遣いの場面で、孫の健康を祈って祈祷する姿だった。一生懸命祈っていたのだろう。婆ちゃんの姿は恐ろしく見え、僕は母親に抱きついた。婆ちゃんはこれを最後に人形遣いをやめた。
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