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2014年6月

冤罪と闘った法律家・矢野伊吉(その1)

1 無罪判決

「被告人は無罪」
古市清裁判長の声が高松地裁(写真)第1号法廷にひびいた。1984年3月12日午前10時のことである。谷口繁義被告は財田川事件の「犯人」とされ、34年間も死刑執行の恐怖におびえてきた。
「やっと自由になれました」
谷口は笑顔で支援者にお礼を述べた。だが一番先に礼を言うべき矢野伊吉弁護士の姿はなかった。矢野は1年前にこの世を去った。矢野は谷口からの手紙を見て無実を直感して以来、谷口救済のために奔走してきた。裁判官をやめると弁護士として、半身不随になると左手で書く練習をするなど、文字通り冤罪との闘いに生涯をかけた。

2 生い立ち

矢野は1911年、現在の観音寺市豊浜町道溝(みちみぞ・写真)の農家に生れた。子どものころからがんばり屋で、コクバ刈り(松の枯葉集め)では自分の背丈より高いコクバを背負った。怖いもの知らずでもあった。小学校5、6年のある夏の日の夜、兄金助が真っ暗な田んぼのあぜ道で大声を出して驚かせた。だが伊吉は逃げなかった。むしろ「こらーだれじゃー」と反撃に出たこともあった。
三豊中学を卒業すると上京し、「経理事務講習所」に入所した。学費は国から支給され、専門学校卒業の資格が得られて高等文官への道も開かれることから経済的に苦しい家庭の優秀な者が集まった。競争率は20倍の難関だった。
講習所終了後は広島高等工業学校(現広島大学工学部)の会計課職員となるが、矢野は下宿に帰ると毎晩深夜1時すぎまで法律の勉強に打ち込んだ。

3 裁判官生活

深夜の猛勉強が実って1937年、矢野は高等文官司法科試験(現在の司法試験)に合格して裁判官となった。やがて下宿先の娘・出口広子と結婚し、朝鮮の平壌地方法院(地方裁判所)の判事に赴任した(写真)。
敗戦となって命からがら帰国すると北海道を振り出しに各地を転勤し、1953年には松山地裁の判事となった。ここでは3人の子どもたちと楽しい毎日が続いた。節分の日には「マメまき」ならぬ「アメまき」をしてマメに混ぜたキャラメルやチョコレートを子どもたちが大声でとり合った。官舎の裏庭では春は黄色のラッパ水仙、初夏は紫の藤の花、秋は色とりどりの菊の花が家族の心を癒した。矢野はマージャンが好きだった。土曜の夜には判事仲間が来て食事やマージャンを楽しんだ。妻の広子は料理上手のうえに朗らかな性格だったから家庭は明るく、いつも笑顔が絶えなかった。
「田舎判事」の矢野に派手な仕事はなかったが、1965年に愛媛県知事選挙の選挙違反事件で「県政のドン」に実刑判決を下したことは地元紙を大いに沸かせた。

4 運命の手紙

1967年、伊吉は高松地裁丸亀支部長に赴任した。
ここでも帰宅後は官舎で趣味の菊作りにはげみ、秋には同僚を呼んで「菊見酒の会」を楽しんだりした。ところが平和な生活を一変させる出来事が起きた。1969年3月末のことである。
「こんなものがあります」と職員が1通の手紙を見せた。5年前のもので、ホコリをかぶったまま棚に放置されていた。
「私の兄が当時着用しておりました警察官ズボンに付着していたという血液が、東京大学医学部法医学教室古畑種基殿の鑑定結果によりO型のみ判明して、これによって被害者の血液型と一致していると原判決で証拠とされて居りますがこの際、男女の区別をはっきりしていただくよう、再鑑定をお願いします」
差出人は「谷口繁義」とあった。財田川事件の犯人とされ、大阪拘置所で死刑執行の日を待っている死刑囚である。伊吉の顔つきがにわかに緊張した。
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