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2014年12月

高松結婚差別裁判

 1932(昭和7)年12月23日、高松市近郊S村の青年2人が「誘拐容疑」で逮捕された。翌年5月25日の公判では、白水勝起検事が「特殊部落民でありながら自己の身分を秘し」て女性を誘惑したと論告し、懲役刑を求刑した。
 2人が住む部落に衝撃が走った。2人は水平社員ではなかったが、5月26日、支部では緊急役員会が開かれた。徹底糾弾すべきだとする強硬派と、抗議程度にとどめておこうとする穏健派に分かれ結論が出なかったため、県水平社に方針を決定してもらうことにした。県水平社は28日に執行委員会を開いたが、支部を中心とする強硬派と、県水平社幹部を中心とする穏健派の意見が対立してまとめることができなかった。以後、数回にわたって協議したが、結論の出ないまま、6月3日、高松地方裁判所で2人に有罪判決が下された。そして、控訴期限である6月10日を過ぎてしまったのである。
 支部は全水本部に応援を依頼した。吉武浩太郎、北原泰作、井元麟之ら全水幹部が相次いで来県し、徹底糾弾の方向で闘争方針を定めようとした。30日に支部糾弾闘争委員会が確立、7月2日の支部実行委員会では闘争の組織化、各部落での座談会の開催、募金活動、部落総会の開催が決定された。これらの闘争は、この年の第11回全水大会で決議された部落委員会活動(水平社員だけでなく部落住民すべてを巻き込んだ大衆的な運動として差別撤廃に取り組もうとする活動)をもとに進められた。讃岐昭和会も調停に入ったが、差別する気持ちはないとする白水検事の釈明と融和講演会の開催という解決案であったため、支部は納得せず、すぐさま拒否した。
 県水平社は6月28日に執行委員会を開き、検事局に対する糾弾闘争を決議し、藤原他12名からなる対策委員会を設置することにした。7月5日、対策委員会が開かれたが意見がまとまらず、藤原と各部落の代表者、全水本部代表による8名で実行委員会を開くこととなり、14日の実行委員会でようやく闘争方針を決定した。

運動方針で対立

県水平社は前年9月、部落改善事業や融和事業家らと協調した新たな路線を進んでいた。そのため徹底糾弾という闘争方針をとうてい受け入れることができなかった。他方、全水本部は沈滞している水平社運動を立て直す絶好の機会ととらえていた。そのため、全水本部は、県水平社幹部を融和事業関係者とともに闘争の切り崩しと妨害を図ろうとしていると見て、香川の闘争から遠ざけるために藤原と上田を大阪に招いた。翌15日、藤原は大阪に向かったものの、その意図を知ってか、18日には香川に帰った。
7月28日に開かれた香川県部落代表者会議に、藤原ら県水平社幹部は20余名を連れ、徹底糾弾の闘争方針をくつがえそうとした。支部はこれに対抗して青年を動員したため、会場は険悪な空気に包まれた。議長の泉野は全水本部で相談するとして帰阪したものの、全水本部はあくまで徹底糾弾の方針を変えることはなかった。意見を無視された幹部らは、ついに県水平社を脱退した。上田は、水平社運動の純化を主張して全水と一線を画した南梅吉の日本水平社の運動に参加した。
 
 

水平社最大のたたかい

 8月26日の香川県部落民大会には、2,000人の参加者が集まるなど、闘争は激しさを増した。この前後には県内各地で大会や演説会が開かれているが、演説に対して警察官から「注意!」「中止!」の命令が相次いだ。28日に大阪市天王寺公会堂で開かれた全国部落民大会には香川から10名が参加し、全国遊説隊の四国地方弁士として中村政治他4名が選任された。そして、8月30日の常任全国委員会では、宣伝隊が組織されることとなり、松本治一郎、北原らとともに、香川からは中村、松本甚七、山本久松が四国地方の弁士となって各地を回った。10月1日に福岡を出発して東京へ向かった全国請願行進隊には、香川の塩田正雪、朝倉武雄が大阪で合流した。東京到着後、塩田は、茨城県まで出向いて演説している。
 11月16日、行進隊は解散し、各地方で報告演説会を開いて闘争の経過と今後の闘争方針を宣伝する第二次の行動に移った。岡山から香川へ入った朝倉ら弁士一行は25日、鷺田村の公会堂で聴衆300余名を前に報告演説会を開いた。この会には、11日に仮釈放となった当事者が出席している(もうひとりは12月7日に仮釈放された)。
 ここで、県水平社を壊滅に向かわせる事件が起こった。
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