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2020年1月

人権マガジン
2019人権研修ツアー in 京都
「ツラッティ千本」で
「部落のルーツ(キヨメ役)を学ぶ」
 2019年9月25日「ツラッティ千本(せんぼん)」を訪れた。ここは千本地域の部落問題を発信する施設、25年前に京都市が整備した。「ツラッティ」とは京都弁でフラッと気軽に訪れてもらいたいという気持ちの表現。地域の実情を隠さず、正しく知ってもらおうと様々な史料を展示している。
 以下は同館による説明の概要。

遺体放置から弔いへ キヨメ役の役割

 平安京の中央部を「千本通り」と呼ばれる大通りが南北に貫いていた。その北部は「千本」と言われ、船岡山と言う風葬の地があった。その近くに蓮台野と呼ばれる所があった。都の中心から外れ、亡骸(なきがら)を葬る所だった。平安京で天皇が暮らすようになると遺体を京の街中に埋めることが禁止された。そこで、人々は都から外れた「あの世」と考えられていた辺境の地へ遺体を運ぶようになり、ここに亡骸を弔う人が住み始めた。さらに、聖なる都から排除されたハンセン病などの病者、身寄りのない人、障害を持った人などが住むようになった。彼らのために施し、いわゆる「非人施業」(ひにんせぎょう)が行われていた。
 この地の記述が文献上で初めて見られるのは鎌倉時代。蓮台野の非人施行が記録されていて、「野口のキヨメ」と書かれている。「野口」はこの地と思われる。「キヨメ」(「清目」)に従事する人たちは当時、河原者(かわらもの)、非人、キヨメなどと呼ばれた。キヨメとはケガレ払いである。野口のキヨメ役、六郎は御所のキヨメ、つまり掃除役だった。掃除役とは、街中に巻き散らかされている牛などの糞尿や死骸、行倒れ、災害犠牲者の遺体などを処理する仕事である。
 それから約100年後、蓮台野の頭(かしら)「赤」という男のことが「北野社家日記」に書かれている。1490年、土一揆を起こした民衆が北野神社に火を放ち、大勢の被害者が出た。火災が収まった後、ある河原者集団がその焼け跡で遺体処理を始めてトラブルになった。1か月後、「千本の赤」は北野神社に抗議した。「ここは昔から我々がキヨメをしてきたところ。なぜこのたび他所の河原者に処理をまかせられたのか。我々は長く北野神社にキヨメとして肉食も断って奉公してきた」。協議の末、抗議が認められて千本の人たちは仕事の権利を回復し、生活も安定した。北野神社内のキヨメや庭の管理、庭園造りにも活躍した。龍安寺の石庭や銀閣の庭造りなどに河原者が関わっていたことが教科書に記載されている。赤が北野神社の梅の世話や庭造りにも関わっていた史実を教材にしたのが絵本「千本の赤」(写真)である。
 猪や鹿など、牛馬以外の動物の革売買を巡ってトラブルになったとの記録も残っている。動物の遺体を処理するのはキヨメ役の仕事だから、「猪も鹿も我々の仕事だ」と他の身分の者が参入してくるともめる。仲裁に入るのは河原者に許可を与えている近衛家などの公家や武士である。朝廷に判断を仰ぐこともあった。河原者の主張が認められると他のものは排除された。

「役人村」としての歴史

 キヨメ役は京都の治安も担った。武士たちの政権ができるとケガレ意識が薄くなり、河原者は警察の下部機構とされて犯人逮捕、探索、処刑、行倒れ処理、不法侵入者の発見や取締りなどを担う「役人村」として認められていった。江戸時代には京都周辺に5つの役人村があった。六角獄舎や西京極、鴨川河原などで処刑が行われるときは処刑役も担っていた。
Q 蓮台野村の人たちはどのような生活をしていたの?
A 詳細は分かっていないが、キヨメの仕事をしていた。村に住んで自給自足の生活をしながら掃除役などキヨ
  メ役も担っていた。当時多かったのは行倒れ人の処理などだったが、糞尿の運搬も収入源だった。糞尿は当
  時、農業に不可欠な貴重な肥料だった。
Q キヨメとは?
A 平安京ができると従来のように遺体を家の周囲で処理することが禁止された。勝手に処理できなくなり、キ
  ヨメ役が遺体処理を担うようになった。キヨメには「浄化」だけでなく「再生」、元のように戻ってほしい
  という願いも込められている。他にも、飢饉や水害、洪水など、自然災害の際の遺体処理も担当し、当然そ
  の費用を受け取っていた。決して恥ずかしい仕事をしていたのではない。
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