本文へ移動

2018年11月

人権マガジン
 香川人権研究所ではフィールドワーク方式の人権研修を毎年実施しています。以下は2018年度の人権研修ツアー報告。
 20世紀に2度も世界大戦を起こした反省から、人権尊重によって平和と自由を確保しようと国連は1948年12月10日、世界人権宣言を採択しました。「世界人権宣言70周年」にあたり、今年度の人権研修ツアーは「平和と人権」をテーマに福山市を訪れました(2018年9月25~26日)。訪問先の一つ、ホロコースト記念館での研修内容を紹介します。
 
 ホロコースト記念館
 
 ホロコースト記念館には「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクとその家族の遺品、ナチスによるユダヤ人弾圧(ホロコースト)の写真、収容されたユダヤ人の遺品、日本人外交官杉原千畝の関係資料などが展示されている。

ホロコースト 無関心の産物

 1995年にできた日本初のホロコースト記念館。ホロコーストとは、ギリシャ語で「人間を火で焼いてしまう」という意味。ホロコーストによってユダヤ人だという理由で600万人の命が奪われた。そのうち150万人が子ども。私はホロコーストを学ぶために50年間世界中を回り、カナダ、アメリカ、イギリスなど40か所以上の収容所を訪れ史料を集めた。「日本で最初のホロコースト記念館を設立したい。皆様の家庭で眠っているものがあればぜひ送ってください」と200通もの手紙を書き訴え、オーストラリアの新聞に載った。
 もっとも文化の高いドイツで選挙によって選ばれたアドルフ・ヒットラーは、ヨーロッパにあったユダヤ人への偏見、根拠のない噂などを利用してユダヤ人を抹殺する1000の法律を作った。ユダヤ人は学校や買い物に行けなく、自転車に乗ることも許されなかった。
 私がホロコーストと出会ったのは1971年、はじめてヨーロッパに行ったとき一人の老人が近づいて来て言った。「私はユダヤ人、ドイツで生まれたがヒットラーによってドイツに住めなくなった。オランダなら大丈夫だと思いオランダへ行ったが、ここへもヒットラーがやってきて私たちユダヤ人は住めなくなった。私は自分の会社の事務所裏に木箱を置いてカモフラージュして回転扉を付け、1年間かけて家具を運び込んで何かあったら暮らせる隠れ家を用意した。娘アンネは13歳の時に日記を書いた。私は父のオットー・フランクです」
ホロコースト記念館 館長 大塚信
アンネ・フランク(1929~1945年)
アンネの隠れ部屋(再現)。いつもカーテンがかかっていた。
 アンネは日記に「どうして人間は仲良く暮らすことができないのでしょうか」と書き、今も人々に世界平和を語り伝えている。「アンネの部屋」には世界60か国から集められたホロコーストを語る品々が集められている。このような施設は世界に約150あるが、ここはレベルの高い施設と評価されている。来館者はこれまでに17万人。
 2000年の人類の歴史の中で戦争のない年はわずか20数年、どうして人間は仲良く暮らすことができないのか。自分中心に考えて悪口を言い、出会ったときは握手をしても心の中は近くない。ではどうしたら仲良くなれるのか。もっともっと近づいて目と目を合わせると仲良くなれるができていない。このことを幼稚園や保育所、小学校、中学校、高等学校に合わせて学ぶ場所がここホロコースト記念館だ。子ども時代にいじめや暴力を受けた人が権力を持てば同じように暴力やいじめをする。
 人権学習と言うと、頭の理解力や歴史的な背景などを考えるが、そうではなく身体全体で理解することが大切だ。
 ホロコースト記念館の教えは「一人の人を救うことが全世界を救う」と言うこと。ヒットラーのドイツは1936年にオリンピックを行い、医学、音楽、科学を発展させ、最新鋭の潜水艦や航空機を作った。だが人間を殺す収容所を700か所、小さいところも含むと5000もの収容所を作った。世界のほとんどの人が見て見ぬふりをした。ホロコーストは無関心の産物と言われる。他方、200人の孤児の父となったコルチャック、杉原千畝をはじめユダヤ人を助けた側の人もいた。デンマークも国を挙げてユダヤ人を助けた。ホロコーストはユダヤ人やドイツ人のことでない。それぞれが自分に置き換えてもらい、国籍などが違っても同じ人間として尊重しあう思いを育てていけば、二度とこのようなことは繰り返されない。

アンネの隠れ部屋

 ユダヤ人少女アンネ・フランクは第二次世界大戦中、ドイツ軍によって強制収容所に送られた。記念館にはユダヤ人の悲劇を伝える史料500点が展示され、アンネが日記を綴った隠れ部屋も再現されている。壁には当時のスターたちや花々の写真が飾られ、希望を失わなかったアンネの息遣いが伝わってくる。
 ユダヤ人とはユダヤ教を信じ、ユダヤ人の母から生まれた人。現在、アメリカやイスラエル、ロシア、フランスなどに約1600万人住んでいる。2000年ほど前に祖国を追われて世界中に散らばり、キリスト教ヨーロッパ社会などで様々な差別を受けてきた。19世紀になると「ユダヤ人は人種的に劣っている民族で優秀なヨーロッパ人種の敵である」との考え方が広がった。ヒットラーは1931年にドイツの首相に就任して権力を掌握、1935年にニュルンベルク法を制定してユダヤ人の市民権を奪った。ユダヤ人は「劣った民族」とされ、5歳以上は服の左胸に黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた。
 
■ニュルンベルク法(主なユダヤ人禁止事項)
〇就労禁止 ○文化活動の制限 ○ドイツ商店への立ち入り禁止 ○ユダヤ人医師への保健不適用
○就学制限 ○ユダヤ系書物の焼却破棄 ○ドイツ人との結婚禁止など
差別のマーク「ダビデの星」
切手に描かれた杉原千畝
ユダヤ人に発給された手書きのビザ
 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵入して第二次世界大戦が始まった。ヒットラーは侵攻先のユダヤ人と次々とゲットーへ収容した。ゲットーとは強制収容所に送られるまでの仮の滞在地。塀で囲まれ、厳しい監視のもと貧困と伝染病が蔓延して不衛生だった。ドイツ軍は占領地に強制収容所を作り、ユダヤ人だけでなくヒットラーに反対する政治犯などもヨーロッパ各地から収容するようになった。1942年にはベルリン郊外で「ヴァンゼー会議」が開かれ、「ユダヤ人対策の最終方針」(殺害、根絶、絶滅のこと)が決定され、ホロコーストは一挙に加速した。
 一方、アンネ家族をかくまったオランダ人以外にもユダヤ人を支援した人たちがいた。日本の外交官・杉原千畝(ちうね)はリトアニアの日本領事だった。ナチスの迫害から逃れようとロシアから日本経由でアメリカへ向かうポーランド系ユダヤ人のために1940年、1か月間に2319通のビザを手書きで発給して6000人の命を救ったと言われている。このような人道的な活動は今後も長く語り継がれ、継承されていかなければならない。
特定非営利活動法人香川人権研究所
〒763-0092
香川県丸亀市川西町南715-1
TEL.0877-58-6868
FAX.0877-28-1011
TOPへ戻る