2018年3月
2017年度「人権研修ツアー」報告(その2)
前回に続き、第12回人権研修ツアー(2017年9月7~8日・テーマ「人権尊重のスキルを学ぶ」)での文さん(他民族共生人権教育センター)の講演要旨を連載します。
民族の伝統と文化
チョゴリは在日コリアンの民族文化を継承する衣装である。6~7年前、大阪府立高校の卒業式で卒業生400名ほどのうち4、5名の女生徒がチョゴリを着ていた。在日コリアン10人中9人が日常生活では日本名を使っている。袴姿の女生徒も普段から袴をはいているわけではない。卒業式という特別な時に自分なりに選んだ袴を着る。同じように、自分は朝鮮人だから、韓国人だから、それを象徴する服を着たいと思う民族意識が在日コリアンの中にある。
駅前の商店のショーウィンドウに小さい服が飾られている。「百日祝い」(「百日ぺギル」=お食い初め)のときに子どもに着せる服(写真)である。在日コリアンの約4割の家庭で「ぺギル」が行われている。私も子どもたちに着せてお祝いをした。
鶴橋駅前市場や生野コリアンタウンは在日コリアンが食材や儀式の道具などを買う場所であり、民族文化を継承する場所でもある。例えば「チェサ」(祖先崇拝の儀式)は今も在日コリアン世帯の9割が行っている。チェサの食器や屏風、お供えなどを売る店が生野コリアンタウンや駅前にある。餅米で作ったケーキ、チェサやお正月のスープに入れるお餅などを売る店もある。今はスーパーで簡単に買えるが、昔はここへ買いに来た。サメの肉を日本人はあまり食べないが朝鮮半島ではチェサに欠かせないお供えである。
コリアンタウンの成立
80年前、猪飼野が「朝鮮市場」と呼ばれていた時代にはたくさん屋台が並び、ハングルで「クッパ」と書かれた看板もあった。クッパは韓国・朝鮮の雑炊。
では、なぜこのエリアに多くの朝鮮人が集まって住むようになったのか。大阪は明治維新以降、東洋一の産業都市として発展した。その中心は大阪城付近にあった大阪陸軍砲兵工廠だった。そこへ各地から労働者が呼び寄せられて工場街が発展した。朝鮮半島からも来た。彼らは地方の鉱山や土木作業に従事したが、大阪では約6割が工場労働者だった(大阪市調査1932年)とりわけゴム、ガラス、鉄など「きつい」「汚い」「危険」の3K職場に朝鮮人労働者が集中した(表1)。彼らが住む長屋界隈は江戸時代には田んぼや畑が広がっていた所だが、大阪が発展して人口が増えると新たな労働者住宅街となった。
当時大阪へ来た朝鮮人はことごとく入居拒否にあったが、この界隈だけは断られなかった。当時この地域では水害が多く発生し、長屋の入居率は低く、空き家が多かったので大家たちは入居者のハードルを下げ、朝鮮人も住まわせた。当時、朝鮮人は家を探すのに苦労したがここなら借りられるので人数が増えていった。これがこの界隈がコリアンタウンになった理由である。現在は運河が完成し、水害もなくなって居住状況も改善されている。
もう一つは仕事である。この界隈は町工場がたくさんあって仕事もあった。中でもゴム工場はよく儲かっていたから多くの朝鮮人が雇用されていた。家を貸さないといけないから雇う、給料も安くてすんだ。戦前1924年内務省社会局第1部(1942年に厚生省に改組)が全国調査したところ、全国各地で日本人労働者と朝鮮人労働者はかなり給料が異なっていた(表2)。生野区にコリアンタウンが成立した背景は差別だった。
(表1)大阪在住朝鮮人の職業
| (表2) 大阪の労働者日給比較
(内務省「朝鮮人労働者に関する状況」1924年)
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1 工 員 7137人 (60.3%)
| 職 業
| 朝鮮人
| 日本人
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2 商 業 2207人 (18.7%)
| 1 ガラス職人
| 1.0円
| 1.5円
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3 土 木 1866人 (15.7%)
| 2 鉄工
| 1.5円
| 2.0円
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4 無 職 1031人 (11.0%)
| 3 ゴム
| 1.0円
| 1.5円
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5 日雇人夫 453人 ( 3.4%)
| 4 メリヤス
| 1.2円
| 1.8円
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ヘイトスピーチへの反発
多くの朝鮮半島出身者がこの地に住み、多民族共生が生活レベルで実践されてきた。ヘイトスピーチがこの街を襲ったとき、真っ先に怒ったのはここに住む日本人たちだった。我々は生野区役所や大阪市役所に行政として何とかしてくれないかと要請に行ったが相手にされなかった。そこで生野区内の日本人の団体、商工会、PTA、社会福祉協議会などに「ひどいことが起きている、一緒に反対してください」とお願いに行った。どの団体も二つ返事で快諾してくれ、大阪市や警察に抗議文を出すなど協力してくれた。ある老人はヘイトスピーチのビデオを見て怒った。「なんだこいつらは!わしは生野に70年住んできた。昔は韓国の人が次々ときて喧嘩もした。しかしお互い理解して仲良くやってきた。今では商店街も韓国の人がいなかったら成り立たない。外からやってきた連中がヘイトだなんだととんでもないことをやっているのは許されない。わしらはここで一緒に生きてきたんや」と言ってくれた。異なる民族、文化、風習、習慣の人が一か所に集まると、対立や喧嘩も起こる。しかしこの地域の人たちは「韓国人は出ていけ、朝鮮へ帰れ」と言わなかった。喧嘩をしながらも一緒にこの街でお互い努力しながら多民族共生を実践してきた。その人たちの強い思いや気持ちが、日本で初めてヘイトスピーチに対処する条例をつくる大阪市の動きにつながった。 (続く)