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2018年2月

人権マガジン

2017年度「人権研修ツアー」報告(その1)

 香川人権研究所は人権研修フィールドワーク「人権研修ツアー」を毎年実施しています。第12回人権研修ツアー(2017年9月7~8日)は「人権尊重のスキルを学ぶ」をテーマに、大阪鶴橋を多民族共生人権教育センターの文(ムン)さんのご案内でフィールドワークし、ヘイトスピーチ問題への理解を深めました。文さんの講演要旨を3回に分けて連載します。

鶴橋エリアとは

 大阪市生野区鶴橋、多くの焼肉屋が密集するこの地域は人口の半分が朝鮮半島出身者。
 朝鮮半島出身者がここに店を出すようになったきっかけは太平洋戦争後、闇市で腹をすかせた人たちに彼らが普段食べている肉やホルモン(牛などの動物の内臓)料理を提供したことだった。戦前、日本人は朝鮮風の動物の内臓を食べる食文化を蔑み、日本人の口に合わないと考えていた。しかし食糧不足で空腹には勝てず、恐る恐る食べた。いい匂いがして食べるとおいしい、しかも栄養価が高い。たちまち日本人の間に朝鮮風ホルモン料理が浸透し、今は日本の食文化となっている。
 

コリアンタウンの歴史

 JR鶴橋駅周辺には戦前、商店や民家がたくさん建ち並んでいた。しかし、戦争末期の1945年、大阪市は都市の空襲対策としてこの地域一帯の建物を全て取り壊して防火用の空き地に変えた。1945年10月ごろの鶴橋駅前の写真を見ると建物は何もなく、空き地に闇市が広がっている。ここを通る近鉄電車は闇市の商売人に便利だった。大阪郊外の農村や奈良、三重方面へ買い出しに行き、戻って来るとすぐそこが闇市だった。闇市に屋台のホルモン屋ができ、それがそれが日本人の間に広がった。
 もともと戦前から焼肉屋はあった。新聞『在阪朝鮮人』に朝鮮飲食店の広告が載っているし、高権三の『大阪と半島人』(1937年)には「猪飼野(いかいの)にはカルビ地区が至るところにある。ことに晦日の勘定日にはにぎやかなものである。仕事の疲れを癒して給料日の後には大変繁盛していた」と書いている。大阪市社会部調査課の『朝鮮人労働者問題』(1924年)によると、ある朝鮮半島出身者一家の一か月の収支は夫55円、妻は104円で夫の2倍、そのうち35円は牛、豚等の臓物の売り上げだった。ホルモン料理がよく売れていたことがわかる。当時はこういう店が朝鮮半島出身者の住む地域では至る所にあった。しかし、日本人はほとんど牛や豚の内臓を食べなかった。被差別部落や都市労働者の中では食べられていたが一般的ではなかった。日本人は朝鮮人の食文化を見下して「我々の口に合わない」、「おいしいわけがない」と思い込んでいた。
*「半島人」 1937年に満州事変が日中戦争へ突入すると、「国民全てが協力して戦争を遂行しないといけない時に朝鮮人と言う呼び方は別の国の人だったことを思い出させるのでふさわしくない」として、朝鮮人とか朝鮮同胞との呼び方を「半島人」「半島同胞」と言い換えた(ムン)。

日朝の食文化が融合

 ホルモンの屋台を引っ張ていた朝鮮人経営者も驚いた。日本人が「おいしい」と言って食べたので「日本人相手に商売すれば儲かる」と考えた。大阪では1947年に千日前筋通りに焼肉屋「食道園」が、東京では「名月館」が1946年頃に新宿で営業を始めた。ただし、従来の朝鮮料理屋とは食べ方が違った。朝鮮料理店は店側で肉を焼いてから客のテーブルに出すが、これらの店では客がコンロを囲んで自ら焼くようにした。日本人が一つの鍋をみんなで囲んで和気あいあいと食べる食文化を取り入れたのだ。もう一つの工夫はタレ。朝鮮風は焼く前に味を付けて「漬けダレ」はしない。日本の鍋文化では熱い食べ物を直接口へは運ばず、一旦取り皿にとり、タレやポン酢、すき焼きなら生卵をつけて食べる。それにヒントを得たのが「漬けダレ」だった。
 焼肉文化は朝鮮半島の食文化と日本の食文化との融合で、差別問題や人権問題を解決するヒントが隠れている。蔑み、見下していた食文化を日本人が食べた体験によって差別・偏見のフィルターが取り払われた。差別問題、人権問題の解決を考えるとき、実際にいろんな人たちと会い、いろんな文化を体験することが力になることを焼肉屋ホルモンの歴史が証明している。
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