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連載 香川県水平社の歴史A
「死んでも差別するのか」

 1928(昭和3)年3月15日、全国で共産党員が多数逮捕される「三・一五事件」が起こった。日農県連書記で全水中央委員だった愛媛県出身の西原佐喜一も逮捕され、労農水共闘の分断がはかられた。各地で農民組合支部の解散が相次ぎ、日農県連は壊滅状態となった。この頃には、塩田庄吉が第二代執行委員長となっていたが、全水からの指令や檄などはよく読むこともせず捨ててしまい、各支部へ伝えようとしなかった。また、全水大会や他府県で開かれた水平社大会にも、祝電を送るだけになっていた。上田は、労農水の闘争が水平社運動からかけ離れたものだったとして、部落住民の自覚と改善を目的とし、就職・結婚の自由を求めた高知県自治団のような融和運動への転換を訴えた。他の支部も目立った動きはなく、仲多度郡支部も1929(昭和4)年3月9日に解散するなど、県水平社は活動休止の状態になってしまった。
水平社運動が低迷していることを心配した高丸大造は、本多民治、河田、藤原喜三太と打ち合わせて、1928(昭和3)年12月25日の県執行委員会で塩田を辞任させ、藤原を3代目の委員長にすえた。県水平社は塩田派と藤原派に分かれて主導権をめぐって争うこととなり、県水平社大会を開催することができなくなった。藤原は、第8回〜第10回全水大会(1929〜31年)に出席して全水本部との連携を強めるとともに、塩田派の勢力を弱めていくことで再び活動の高まりが見られるようになった。しかし、おりからの不況のせいもあり、大会を開催できないほど、県水平社の財源不足は深刻な状態になっていた。


初代委員長 高丸義男
1932(昭和7)年6月、県水平社幹部の河田政太郎を中心に「四国同胞新聞」が創刊された。活動資金の確保のためであろう。購読料は一部7銭、4面の月刊紙で、広告料は一行50銭であった。藤原、田中、上田などの県水平社幹部に加え、県社会課や融和団体の讃岐昭和会で部落改善事業や融和事業に携わり、のち出家した加藤仁海や警察官時代に私財をなげうって部落改善に努めた村上訥堂、のちに高松結婚差別裁判で讃岐昭和会として調停を行おうとした僧侶の藤原淨休など、当時部落改善に取り組んだ人々が原稿を載せ、県社会課課長も発刊の祝辞を寄せた。高松結婚差別裁判で弁護人を務めた中村皎久も法律顧問として名をつらね、県議会議員や村長、小学校長など多くの人が広告掲載に応じた。部落改善事業や融和事業の関係者を購読者と考えていたような記事が多く、ある小学校では全教員分とも考えられる17部を購入していた。この新聞は創刊号から第4号までの確認しかできないが、少なくとも2年間は発行されていたようである。
無産運動が主流であった全水本部との連携につとめた藤原たちではあったが、財政難のなか、部落改善事業、融和事業関係者らとの協調という活動方針の転換はやむを得ないことであった。同年9月の県拡大執行委員会では、水平社運動は「人間礼讃平和のための運動」であるとして、無産運動と訣別することを明らかにした。 ところが、この方針を根底から揺さぶる大事件が起こる。

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