TOPページ
研究所だより
人権マガジン
香川人権研究所概要・組織
事業内容
行事予定
書籍(新刊図書ご案内)
会員募集
リンク
香川の人権ニュース
センターご案内
ちいさな人権博物館
人権マップ

人権マガジン

バックナンバーはこちら >>


同和をかたる高額図書押し売り事件

 1950年2月28日深夜、三豊郡財田村(現在の三豊市財田町)でヤミ米ブローカーの男性が刺殺され、現金1万3,000円が奪われた(写真は事件現場)。財田川事件である。捜査は困難をきわめ、なかなか犯人が見つからなかった。警察は「地元の不良グループがあやしい」と見込み捜査を始めた。事件から2カ月後、隣村の農協で強盗傷害事件が起きて谷口が逮捕された。警察は谷口を4カ月間留置して別件の財田川事件についてきびしく取調べた。農協事件は谷口の犯行だが、財田川事件については否認を続けた。しかし警察の拷問に耐え切れず自白する。高松地裁丸亀支部、高松高裁を経て57年、谷口は財田川事件の犯人とされて最高裁で死刑を言い渡され、その後、刑は確定した。

「再審請求じゃなかろうか」死刑囚谷口からの手紙に矢野は何か感じるものがあった。 「ズボンの血液は鉄道自殺した女性の血液。警察官の兄が自殺遺体を収容したときに付着したと判決後に教えてくれた」と、唯一の物的証拠とされたズボンについて谷口から重大な情報が伝えられた。 にわかに矢野の顔色が変わり、とりつかれたように訴訟記録を読み始めた。
谷口やその兄、当時取り調べにあたった警察官、検事、鑑定医などを次々と尋問した。「あなたの調書には『ズボンを見せた』と書いてあるが本当に見せたのか」。調書自体に疑問をいだき、当時検察官の取調べを筆記した事務官にたずねた。「見せたと思う」と事務官は答えたがその日、ズボンは鑑定のために岡山大学へ送られていた。調書は偽造だった。矢野は冤罪を確信した。他にも疑問点が次々と出てきた。重要書類が「紛失届」で処理されていることも分かった。

谷口は前科のある19歳の不良だった。財田川事件の前年にブローカー宅に入って1万円を盗み、その後も傷害事件を起こしている。「財田川も谷口がやったにちがいない」と誰もが決め付けた。風評に依拠して警察や検察が谷口を犯人にしたのではないか、裁判所も下級審を追認したのではないか、谷口一人にすべてを押し付けてみんなが一件落着したのではないか、前科者だからという予断と偏見、裁判所の安易な姿勢によって無実の谷口が死刑にされようとしている、矢野はこう考えた。
矢野は裁判官にあこがれ、深夜1時2時まで猛勉強したのだが、今では警察にも検察にも裁判所、法務省にも深い疑問を抱くようになってしまった。誰にも相談できず一人で苦悩する日が続いた。笑顔が消え、眉間には深い縦ジマができて鬼のような恐ろしい顔つきになった。極度のストレスからあたりかまわず大声で叫ぶこともあった。

「警察の捜査に間違いがあれば、それを正すのが裁判所の役目ではないか」、若き日の正義感がよみがえってきた。矢野はついに決断した。「私がこの事件に対して、それまでの裁判官と同様、とおりいっぺんの処理をして波乱を起こさなかったら、私は無事定年を迎え、平和で不自由のない余生を送っているだろう。だがしかし、その場合、獄中で今なお無実を叫び続けている谷口の声を、いったい誰が伝えうるであろうか。そこには、たまたま私しかいなかったのである。やはりこれは私の運命なのだと思う」(矢野伊吉『財田川暗黒裁判』より)
再審開始を決定したうえで退官し、弁護士に転身して谷口を救出することを決めた。69年秋だった。家族は納得しなかった。だが矢野は白黒をはっきりさせないと気がすまない。家族は「好きにすれば」としか言えなかった。

矢野の作戦は最初からつまずいた。再審開始決定書草案をタイプ印刷する段階になって陪席裁判官2人が突然態度をひるがえした。背後で何かが動くのを矢野は感じた。70年、再審開始の手続きができないまま退官した。
72年、脳卒中で倒れた。命は取り留めたが半身不随となり、右手が不自由になった(写真)。追い打ちをかけるように丸亀支部が再審請求棄却を決定した。即時抗告したが高松高裁でも最高裁でも棄却された。再審の壁は厚かった。さらに妻広子の死が大きなショックを与えた。子どもたちも苦労を強いられた。県外に嫁いだ娘2人は子どもを丸亀へ転校させて伊吉の介護と広子の看病に努めた。東京にいた長男は転勤希望を出して家族ごと帰ってきた。

裁判所仲間や先輩、「谷口に違いない」という世間を相手に矢野は孤立を強いられた。だが72年、東京の本屋から出版話がきた。丸亀まで来た熱意にこたえて左手で原稿を書いた。75年に『財田川暗黒裁判』が出版されるとマスコミが注目した。その影響もあって市民運動が始まった(写真)。さらに最高裁から「白鳥決定」(「再審にあたっては疑わしきは被告人の利益になるように」)が出た。風向きが変わった。76年に最高裁は高松地裁に審理差し戻しを命じ、79年から高松地裁で公判が始まった。だが矢野は衰弱して83年3月に71歳で生涯を終えた。無罪判決まであと1年だった。
風評に惑わされなかった矢野の姿は、様々な差別や偏見と闘う人たちに勇気を与えている。


ページ上へ




香川人権研究所map