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@ 琴弾公園(観音寺市)/県水平社発祥の地
A 厳島神社(三豊市)/冤罪・財田川事件
B 弁天山・JR海岸寺駅/結婚で男女が自殺
C 香川県人権啓発展示室(丸亀市)/体験型の人権啓発施設
D 綾川町生涯学習センター(綾川町)/宮武外骨のお宝
E 坂出港(坂出市)/高松結婚差別裁判事件の始まり
F JR高松駅(高松市)/人にやさしい駅
G 大島青松園(高松市)/ハンセン病苦難の島
H 東かがわ市中央公民館(東かがわ市)/日本初の女性博士・保井コノ像

@琴弾公園(観音寺市)/県水平社発祥の地
県水平社が結成大会
 観音寺市の琴弾(ことひき)公園にあった旧観音寺町公会堂(写真=観音寺市提供)。「琴陽館」と呼ばれ、棟瓦に「琴」の文字が焼き込まれていた。棟瓦の一部は公会堂跡地に建つ「市立老人憩いの家」に保存されている。
 1924年7月、公会堂で香川県水平社結成大会が開催され、香川の水平社運動がスタートした。当時の新聞はこう伝えている。「十一日午後一時より観音寺町公会堂に於いて、同町水平社同人主催の第一回大会が開催された。来会者二五〇余名、本部より泉野利喜蔵(いずのりきぞう)、米田富(よねだとみ)、愛媛県より山田某の各氏が弁士として来援、盛んに熱弁を振るわれ、拍手喝采裡に午後五時半閉会を告げた」
(香川新報)
 県水平社は生活改善のために味噌や醤油などの共同購入に取り組む一方、氏子入りや公営墓地参入の運動や学校での部落児童への差別糾弾などをすすめた。当時は部落のある校区では部落児童だけを集めた「部落学校」が設けられ、「分離教育」が行われていた。1890年に一町村一学区尋常小学校一校に統合されたが、1926年には「差別されても一切我慢する」との念書を校長が部落総代からとっていたことが発覚して県水平社が糾弾している(『香川県史5』)。全国水平社は、賤称語によって「侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾(きゅうだん)」を成す」との立場から差別行為者に抗議し、謝罪や反省を求めた。反省の意思を示した人は新聞に謝罪広告を出したり啓発講演会を開いたりした。

琴弾公園
 琴弾公園は1897年に県立公園として開園した県営公園。国の名勝に指定されている。公園内には砂の造形による「寛永通宝」は有名。「道の駅ことひき」(写真)には郷土資料館や「世界のコイン館」、温泉などがある。展望台から見る燧灘の夕景は絶景である。

A厳島神社(三豊市)/冤罪・財田川事件
財田川事件の現場
 1950年2月28日夜、三豊郡財田村(現三豊市財田町)でヤミ米ブローカーの男性が刺殺され、現金1万3000円が奪われる強盗殺人事件が発生した(財田川事件)。現場は国鉄(現JR)土讃線讃岐財田駅北側の厳島神社(写真)裏の農家。財田川事件は戦後の代表的な冤罪(えんざい)事件である。
 事件から二か月後、隣村で起きた強盗傷害事件で地元のTが逮捕された。警察は四か月間留置し、別件の財田川事件について拷問を加えるなどして厳しく追及した。Tは財田川事件への関与を自白し、1957年に死刑が確定した。

矢野伊吉の活躍
 1969年、高松地裁丸亀支部長の矢野伊吉(写真=四国新聞社提供)は偶然一通の手紙を読んだ。差出人はT。「ズボンの血液は鉄道自殺した女性の血液。警察官の兄が自殺遺体を収容したときに付着したものと教えてくれた」との記述に矢野は顔色を変えた。財田川事件ではこのズボンだけが唯一の物証だった。矢野はただちに訴訟記録を読み返し、職権でTや兄、当時取り調べを担当した警察官、検事、鑑定医などを次々に尋問した。「『ズボンを見せた』と書いているが本当か」、調書を作成した検察事務官にただした。ズボンはその日岡山大学へ鑑定にだされていたから調書は偽造だった。さらに、警察の重要な調書が「紛失届」によって処理されているなど次々と不可解な事実を発見し、矢野は冤罪を確信した。
 Tは財田川事件の前年に同事件被害者に傷を負わせて1万円を奪った窃盗傷害事件の前科者で、町内では不良と呼ばれていた。「財田川事件もTに違いないと決め付けているのでは」「風評に依拠して警察や検察も彼を犯人にしたのでは」「チェックすべき裁判所も下級審を追認したのでは」「前科者という予断と偏見、裁判所の安易な姿勢などで無実の者が死刑にされようとしているのでは」。信頼し誇りに思っていた警察・検察・裁判所・法務省への疑問が膨れ上がり、矢野はノイローゼになってしまった。定年一年前のことだった。「警察に間違いがあれば、それを正すのが裁判所ではないか」、矢野に若き日の正義感がよみがえった。だが周囲から様々な圧力がかかり、目的を達成できないまま退官した。矢野は弁護士となってTの支援を続けるが脳卒中で倒れ、半身不随になると左手で書く練習をした。そこに再審請求棄却、即時抗告棄却、妻広子の死などが追い打ちをかけた。だが1975年に風向きが変わった。『財田川暗黒裁判』が出版されると新聞や雑誌などマスコミで注目され、被告の無罪釈放を求める市民運動も始まった。さらに決定的なことは最高裁が「白鳥決定」を出したことだ。「再審にあたっては疑わしきは被告人の利益になるように」との決定によってついに1976年、最高裁は高松地裁に審理差し戻しを命じ、1984年に高松地裁で無罪判決が出た。矢野は判決一年前に他界した。
 風評に惑わされず事実を大切にした矢野の生き方は、現代に生きる私たちへの警告でもある。

B弁天山・JR海岸寺駅/結婚で男女が自殺
男女二人が自殺
 1972年8月、徳島の青年男女二人が詫間町(現三豊市)と多度津町で自殺した。男性は国鉄予讃線詫間駅前の弁天宮で松の木に首をつっていた。弁天宮があった小山(写真=旧詫間町提供)は駅前開発事業によって今はない。女性は予讃線海岸寺駅構内で列車に敷かれて即死した。

背景に結婚差別
 17日夕方6時ごろ、弁天宮で男性が木に首をつって死んでいるのを近所の人が発見した。6時間後の深夜零時すぎ、海岸寺駅構内(写真下)で女性が貨物列車に飛び込み即死した。女性の遺書に「二人で入水自殺を図ったが果たせなかった。ウチの家柄が悪いから結婚できなかった」という主旨の内容が書かれていたため、警察は結婚問題を苦にした自殺と断定した。二人は徳島県西部に住む19歳の男女だった。前年に徳島の女性が部落差別に悩んで大阪市内で自殺し、再発防止に努めていた関係者はショックを受けた。
 事件の二か月後、二人の地元で葬儀が営まれ、県知事や国会議員など多数の参列者が部落差別根絶へ決意を固め合った。翌月、町は同和教育の強化を決定し、行政や教育委員会、学校、議会、労働組合などによる同和教育推進協議会の取り組みが強められることになった。NHK徳島放送局も特別番組『差別は命を奪う』を放送し、大きな反響を呼んだ。一方、香川県内の新聞は単に若者の自殺事件としてのみ報道し、二人が尊い命をかけて抗議した部落差別には触れていない。香川県でも徳島県でも1996年に部落差別防止条例が制定され、結婚及び就職の際に部落出身者かどうか身元調査することを禁止している。

香川県部落差別事象の発生の防止に関する条例(主旨)
 結婚と就職に際して県民及び県内事業者は特定個人について@部落関係者かどうか身元調査をしてはならないA興信所などに調査を依頼してはならないB興信所などは調査を引き受けてはならないC協力してはならないDその他部落差別につながる行為をしてはならない


C香川県人権啓発展示室(丸亀市)/体験型の人権啓発施設
見て触れて体験する
 香川県人権啓発展示室は実物に触れ、体験を通して人権問題に理解を深める体験型研修啓発施設。香川県が県民啓発の拠点施設として2003年に香川部落解放・人権啓発センター(丸亀市)内に開設した。専門家による展示解説、人権・同和問題の研修会や企画展などが開かれ、学校授業にも利用されている。

展示コーナー
 主な展示史料は@香川の部落産業と言われた行商人のジオラマや使っていた道具(売薬行商人のカバンや薬など)A製作工程がわかる和太鼓の実物B生の牛皮C高松結婚差別裁判糾弾闘争のポスターや運動に参加した人の手記Dハンセン病治療薬など。

体験コーナー
 誰もが使いやすい食器(フォークやスプーン)、文房具、キャリーバッグ、靴など身近なユニバーサルデザイン製品が体験できる。また高齢者疑似体験や点字体験もできる。

資料コーナー
 人権問題の図書やDVDの視聴・貸出し、啓発用大型パネルの貸出しも(いずれも無料)。

利用案内
@開館時間は9時〜17時(土・日・祝日は10時〜16時。要予約)
A休館日は年末年始、臨時休館日もあり、電話で問い合わせが必要。
0877-58-6868(香川人権研究所まで)


D綾川町生涯学習センター(綾川町)/宮武外骨のお宝
宮武外骨のふるさと
 綾川町生涯学習センター(写真)には宮武外骨(みやたけがいこつ)のコーナーがあり、外骨が編集・発刊した『滑稽(こっけい)新聞』や『震災画報』などの鮮やかな実物が展示されている。
 外骨(写真)は、明治から大正にかけて「反権力・反差別」を貫いたジャーナリスト。1867年に現在の綾川町に生まれて15歳で上京、翌年「外骨」と改名した。『頓智(とんち)協会雑誌』『屁茶無苦(へちゃむく)新聞』などがヒットしたが、23歳の時明治憲法の発布を茶化したイラストが「不敬罪」に問われて投獄され、その後大阪へ。『滑稽新聞』で警察の汚職事件をスクープすると民衆から喝さいを浴びた。「権力に屈せず過激にして愛嬌あり」のキャッチフレーズで人気を呼び、『滑稽新聞』は8万部も売れた。当時最大手の朝日新聞が20万部だから人気のほどがわかる。

時代を先取りした人権感覚
 外骨は部落問題に関心があった。水平社創立前の1916年にすでに部落問題の専門誌『新平民雑誌』を自費出版し、その中で「部落差別を禁ずる法律を作るべき」「差別を見たらやめさせる行動が必要」などの持論を展開した。1965年に同和対策審議会が部落差別の法規制を提起したが、それより半世紀も前に問題提起している。
 外骨は「自分は部落出身である」と不実を書いて一族の物議を醸したが、外骨は部落差別を論じるとき、決して他人事でなく自らの問題として受け止め、差別する方がいけないことを明確に主張した。このことも彼の人権感覚の高さを示す一例である。
 1923年に関東大震災が発生、恐怖と不安におののく人々の間に「朝鮮人が日本人を襲撃する」というデマが流れた。デマに煽られた自警団の若者たちが「自警団暴力事件」を関東各地で引き起こし、朝鮮人虐殺事件も起きた。外骨は自警団暴力の現場をリアルに記録し、『震災画報』を創刊して告発した。外骨は「人権」という言葉を早くから用いた。大正デモクラシーの時代には「民本党」を結成し、障害者に対する国の福祉政策、義務教育の無償化、言論や結社の自由など、現在の基本的人権の実現を主張したことも高く評価されるべきである。

E坂出港(坂出市)/高松結婚差別裁判事件の始まり
坂出港と千当丸
 瀬戸大橋が開通するまで、坂出港と岡山県下津井の間を運航していた千当丸(写真=千当海運提供)。1932年12月、下津井発の千当丸の中で若い男女が出会った。船内での会話が弾み、親しくなった二人は坂出港で下船して港内食堂で夕食を共にした。その後二人は結婚の意思を確認して高松市内で同棲することになった。

高松結婚差別裁判事件
 「部落をかくして結婚話を進めたのは犯罪だ」。高松地方裁判所は1933年6月、高松市郊外に住む青年兄弟二人に結婚誘拐罪を適用し弟に1年、兄に10か月の懲役刑を下し、二人は収監された。弟とは前述の男性である。
 結婚は誰にも身近で切実な願いだったから噂はすぐに県内の部落に広がり、日頃は水平社に無関心な人たちも顔色が変わった。
兄弟は水平社員ではなかったが、地元水平社は判決取り消し運動を始め、全国水平社本部も動き出した。8月には高松で県部落大会が開かれて千人を超える人が集まった。大阪では全国部落大会が開かれて全国的な取り組みが決定され、判決撤回・差別裁判糾弾の運動は水平社以外の人たちも参加して大規模な取り組みに発展した。10月1日には政府・司法省に判決取り消しを求める各県代表者の一行が福岡を列車で出発して東京をめざした。沿線では一行を激励する旗がふられ、各地の演説会には大勢が参加して判決撤回を求める世論は日増しに高まった。政府寄りの中央融和事業協会も「影響極めて甚大なる」と政府に不快感を表明した。
 政府交渉では大量の署名簿を背景に「明治政府の解放令によって身分制度は廃止された。部落出身を告げないことがなぜ罪になるのか」と迫った。「解放令」とは1871年の太政官布告のことで、被差別身分を廃止して「職業、身分ともに平民同様たるべき」と書かれている。政府や司法省は判決と「解放令」との矛盾を突かれた。
 判決は撤回されなかったが兄弟は年末に仮釈放され、裁判に関与した検事や逮捕に関与した警察幹部は退職や左遷などの処分を受けた。司法省は全国の裁判所に向けて部落問題に慎重に対処するよう指示を出した。
 11月25日夜6時から青年の地元で集会が開かれた。演説会の途中、警察官が「弁士中止」と叫ぶと場内が真っ暗になり、悲鳴が上がって大混乱になった。高松検事局中村警察部長は「中止の命に服せず、電灯線を切って火鉢を投げつけ警察官に裂傷を負わせ」(香川新報)と発表し、これを契機に警察は強硬な態度に転じた。事件の容疑者として県内の水平社活動家61人が逮捕されたのち転向を発表し、翌年2月に県水平社は消滅した。全国的には水平社の組織が拡大した闘いだが、香川では逆になった。
 戦後1946年7月、国会で高松裁判が取りあげられて政府が謝罪した。田原春次代議士の質問に対し、木村司法担当大臣は「その当時大いに私もこれ(高松裁判)はいかんと考えた一人であります。裁判所に於いて若い者が左様な考え方をして居ったという事実に対して、私は司法大臣としてまことに申し訳ないと考えて居ります。将来は左様なことのないように、十分の取扱をしたいと思います」(衆議院「帝国憲法改正案委員会会議録」)と謝罪した。差別判決を認めたといえる。田原氏は1933年に福岡県水平社委員長として来県し、高松で判決撤回の演説をしている。

FJR高松駅(高松市)/人にやさしい駅
誰もが利用しやすい駅

 JR高松駅はヨーロッパ調のデザインで、ガラス張りの天井から明るい光があふれている。2階のプロムナードデッキは枕木を敷いた癒しの通路となっている。
 同駅は1日に2万人以上の人が利用する誰もが安全で利用しやすいユニバーサルデザインの駅である。例えば、視覚障害者が白杖を用いて点字ブロック上を進むと、西側スピーカーから「高松駅の入り口はこちらです」と音声案内が聞こえてくる。続いて北側スピーカーから「サンポート方面はこちらです」、さらに東側スピーカーから「タクシー乗り場はこちらです」と音声案内が聞こえてくる。地中に埋設されたセンサーが白杖先端の金属部分を感知して音声誘導スイッチが入る仕組みである。その他トイレや自販機、カウンターの高さなどにも様々な配慮がされている。
 JR四国は1538人(2017年現在)のサービス介助士を駅員や車掌に配置している。サービス介助士は介助の基本理念、接遇、介助技術などの知識と実際のサービス介助技術を身につけた専門家。

高松駅のバリアフリー・ユバーサルデザイン
▽券売機/通常の高さとさらに10a低いものに設定、車椅子利用者や高齢者、子どもなどが使いやすい▽みどりの窓口や公衆電話/券売機同様に高さに配慮▽時刻表/目線の高さに設置して誰もが見やすい▽改札口/幅を広げ、車椅子の人や子ども連れ、大きな荷物を持った人、妊婦なども安心して通れる▽ホーム/階段がなく平面構造で通行しやすい▽エスカレーターやエレベーターを設置▽トイレ/多目的用トイレは人工肛門利用者(オストメイト)も利用できる▽非常灯/非常時には音声で視覚障害者に非常口の場所を知らせる▽AED/構内で救急救命措置をとる▽表示/日本語、英語、韓国語、中国語に配慮▽到着チャイム/列車到着のたびに改札口上のチャイムが鳴り、誰もが出口へ行きやすい▽点字ブロック/駅周囲は高松市条例で駐輪禁止、点字ブロック利用者の安全を確保▽車両/快速「マリンライナー」(瀬戸大橋線)の他一部の列車に車椅子利用者専用席がある。

障害者差別解消法
障害を理由とする不当な差別を禁止し、国・自治体など公的機関に対して「合理的配慮」の提供義務を定めている(民間は努力義務)。合理的配慮とは、障害者の人権を尊重してできる限り配慮と工夫をすることを意味する。

G大島青松園(高松市)/ハンセン病苦難の島
大島青松園
 高松市庵治町の沖にある大島青松園(写真)は1909年、「大島療養所」として鳥取を除く中四国八県によって発足した。1941年には厚生省に移管されて「国立らい療養所大島青松園」と改称、さら1946年には「国立療養所大島青松園」と改称された。
現在入所者は50数人。全員ハンセン病は完治している。隔離を定めた「らい予防法」が1996年に廃止され、自由に社会復帰できるようになったが社会復帰した人はほとんどいない。高齢化や身寄りがないことに加え、今も病気に対する根強い差別や偏見があるためだ。「親戚の縁談に差し障る」「患者の血筋とみられると差別される」などの誤解が元患者の社会復帰をさまたげている。
厚生労働省や県は「遺伝病ではありません。感染力は非常に弱く、感染してもほとんど発病の可能性はありません」と啓発している(『ハンセン病の正しい知識と正しい理解を』香川県)。

ハンセン病
 ノルウェー人医師ハンセンが「らい菌」を発見したので「ハンセン病」と呼ばれている。らい菌が末梢神経をおかすと視力を失ったり手足が不自由になったりする。長い間「不治の病」と恐れられたが、今は薬(写真)で簡単に治る。
「成人の場合、日常生活の中で感染することはありません。また感染したとしても発症は非常にまれ」と国立感染症研究所は言う(同HP)。日本での発症は毎年ゼロか1人程度で薬によって完治している。開園以来全国の施設で発症した職員はいない。
最近は人権学習や施設見学の目的で同園を訪れる人が増えている。専用船(厚生労働省)が毎日、高松港から五便運行されている(無料)。

ハンセン病基本法
@ハンセン病差別の禁止
A入所者に対する国の責務
B療養所施設は一般医療機関として開放
C入所者も地域住民も一緒に生活する共生社会をめざす など


H東かがわ市中央公民館(東かがわ市)/日本初の女性博士・保井コノ像
日本初の女性博士
 東かがわ市中央公民館には保井(やすい)コノの像がある。保井の母校・同市立三本松小学校にも保井像がある。保井は1880年に三本松(現東かがわ市)で生まれ、日本初の女性博士になった。
戦後、男女平等が憲法で定められて男女共学が始まったが、戦前までは学校教育でも男女別コースが基本だった。尋常小学校と高等小学校は男女とも入学できたが、中学校の受験資格は男子のみ。男子は大学まで進学できたが女子は高等女学校まで。女学校などでは「女は育児と炊事、洗濯など家事をこなすべし」とする「良妻賢母」(りょうさいけんぼ)教育が行われていた。高等女学校は男子の中学校と同じ位置づけで、「高等」とは教育内容ではなくて女子にとって最高の教育機関という意味だった。例外は女子師範学校で、これは小学校や高等女学校の女子生徒の教師養成学校だった。保井は香川師範女子部(現香川大学教育学部)から女子高等師範(現お茶の水女子大学)へ進んだ。

「男尊女卑(だんそんじょひ)」
 「女のくせに学問なんて」という「男尊女卑(だんそんじょひ)」の時代に学問の道を選んだ保井は、至るところで男性から差別といじめを受けた。初の被差別体験は1903年。恩師の依頼で物理の教科書を執筆したが、文部省(現文部科学省)の男性検定官から「女にこんな難しい内容を書けるはずがない。誰に書いてもらったのか」と侮辱されたうえに検定不合格とされた。
1911年に保井の英語論文『さんせいもノ生活史』が英国の植物学雑誌に発表されると国際的注目を浴び、ドイツのストラスブルガー教授などから留学をすすめられた。保井が官費留学を申請すると、文部省の男性役人は「女子は理系に向かない。帰国後も結婚して家庭生活に入るなら税金の無駄づかい」と拒否された。2年後、「理科および家事研究のため」と目的に書き加え、ようやく国費留学が実現した。このとき、「結婚せず生涯研究を続ける約束をさせられた」と教え子の広重寿子(元神奈川歯科大学教授)は証言している。
留学から帰国した保井は北海道から九州、中国撫順まで各地の炭鉱を訪ねて石炭を採取し、その細胞構造を研究した。そして石炭は古代植物が炭化したものであることを突き止め、従来の微生物による石炭成因説に代わる新見解「水成堆積物説」を発表した。これは長年にわたる膨大な植物研究の実績に裏付けられたものだった。保井の研究業績が東大からも高く評価されて1927年、東大理学部は保井に理学博士号を授与した。
保井は「女性は決して男性に劣っていない」ことを証明し、女性研究者の理系進出に道を開いた。保井後10年間に20人の女性博士が誕生し、女性の能力が学問の世界でも発揮される道が開かれた。

女性活躍推進法
男女共同参画社会を推進するため、同法は女性の活躍推進に向けた数値目標を盛り込んだ行動計画の策定・公表を事業主(国や地方公共団体、労働者が300人以上の民間企業等)に義務付けている。内閣府世論調査(2017年)では女性の人権問題として「職場での女性への差別待遇」(51%)がトップに挙がっている。
 

*この記事を利用される場合は必ず香川人権研究所へご連絡ください  TEL 0877-58-6868


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